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ここがヘンだよ最後の晩餐

タクシーを拾って、
「サンタマリアあれ何だっけ・・・ダヴィンチ」というと、
「デッレ・グラーツィエ」と運転手が教えてくれた。
「そう、グラーツィエ、グラッツェ」といって、サンタマリア・デッレ・グラーツィエ教会へ着いた。
見学者は教会の回廊を抜け、空気フィルターを通過し「最後の晩餐」と対面する。

20年に及ぶ洗浄修復作業を終え、
500年の時を経て姿をあらわした『最後の晩餐』(421×903)は、
壁画の一般的な画法、「フレスコ画法」ではなく、
「テンペラ画法」で描かれている事が判った。

制作中でも、試行錯誤を繰り返したレオナルドには、
壁面に漆喰を塗り、それが乾かないうちに手際よく描かなければならない「フレスコ画」は
向かなかったという。
描き直しの可能な「テンペラ画」こそ、レオナルド絵画理解の鍵でもある。

しかし、この方法は、画の表面が呼吸しないために湿気に弱く、完成まもなく劣化が始まる。
そして幾度も修復という上書きが施されてきたのだ。

教会の食堂のガランとした空間に描かれた壁画を見上げると、
複雑に入り組んだ「手」の描写に困惑する。

一人ひとりの手振りが意味ありげである。
イエスの左に放置されたような腕は誰の腕だ。さらにヨハネの肩に掛る腕は誰のものだ。
見るほどにデッサンが狂っているようで不自然なのだ。

さらにイエスと空間を挟んで並ぶジョバンニ(ヨハネ)。
と、説明されているのは明らかに女性である。マグダラのマリア・・・。
だとしたらヨハネは何処にいるのだ。

そう思う一方で、
「手話」のようなボディランゲージを必要としたイタリア文化の歴史を想像し・・・、
軽い気持で観に行ったはずなのに、500年の時を経て甦った問題作「最後の晩餐」は、
なんとも落着かない気持にさせられるのである。

そしてさっそく売店でポスター・解説書の類を購入した。
下はそのポスターの部分である。



「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
弟子たちはだれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。

イエスのすぐ隣りには、弟子たちの一人で、
イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
       ・・・(新共同訳・ヨハネによる福音書13裏切りの予告)下線引用者。

ヨハネによる福音書にもちゃんと書いてある。

次に、手の動きの意図するものの参考に、ダヴィンチの手記はどうなっているか、

  ――「詩」は畢竟するに盲者に働きかける学。
     「絵画」は聾に働きかける学だと言ってよかろう。――

     「手と腕とはどんな働きにあたっても、
      それを動かす人の意図を出来るかぎり明瞭にすべきである。
      けだし自分の気持を興奮させた人は、
      あらゆる運動ごとに手振りによって気持を出してしまうからである。」
       (「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記上」岩波文庫195P・239P=杉浦明平訳)

なるほど。



そして「イエスの血脈と聖杯伝説」を種本に、
シオン修道会の秘密が公表されたと話題だった、「ダ・ヴィンチ・コード」である。
この「事実に基づいた」ミステリーを読まなくてはならない。

しかし物語は佳境に入ったところで、幾度も「フレスコ画最後の晩餐」と繰り返されて、
「事実」に基づいてないじゃん、ダン・ブラウンさん。
とまた落着かなくなるのである。

・・・そんな事を考え出すと、壁画の劣化は、単に湿気の為だけではなさそうである。

  20年後には《湿気の為か、他の不都合の為か》既に破損し始め、
  37年後には《拡がったしみのほか何も見えない》。

いや、むしろ「最後の晩餐」は消されたのかもしれない・・・。
  そんな疑問がアタマの中でもたげてきた。

――イタリアの夏は暑い。
石で造られた建築物に湿気が篭ると、サウナ状態となる。
夏の旧市街は、昔は伝染病の巣となった。故に貴族たちは、街から離れる。
それが「避暑」である。

世捨て人も何処か涼しい所で頭を冷やそうと、グラーツィエ教会を離れ、
街角の喧騒と照り返しを避けて、
ひっそりと静まり返ったアンブロジアーナ図書館へ行った。

併設された絵画館は、どの部屋にも制服の警備のおじいさんしかいない。
足音がいちいち高い天井に反響する。
大きな展示室に慎重に足を運ぶと、
数十点の作品の中で、ひときわ異質な絵が目に飛び込んできた。

そして思わず吸い込まれるように、その絵の前に立っていた。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ《ある音楽家の肖像》」。

そうかこれもレオナルドか。
やはり何かがヘンなのである。

もっとも後に、この作品は、
レオナルド工房の作品であるらしいという事を、解説書で知ったのだが、
多くの作品の中にあって、それと知らずに足を向けさせる何かが、
レオナルドの作品には共通してある。

それは目鼻立ちのデッサンの線が、微妙にずれている所為なのか、
赤い帽子が遠目にも不自然なのであった。



■世捨て人のイタリア散歩
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