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■世捨て人の熊野紀行 【4】 新宮「徐福公園」にて一服 |
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子供の頃教科書にはハッキリと記されていたが、ただそう記されているばかりで、 そこで、いったいどういう事が起こったのか、わからない事ばかりなのであった。 それはジャワ島辺りから、環太平洋を廻って散らばって来た、 数千年続いた日本列島先住民の長閑な焼畑農業にも、 おおきな転換を迫るものであったのであろう。 長江河口で進化した灌漑式の農業技術を持つ集団が、 ペルシャ系の「秦」の統一(BC221)を恐れ、 南はベトナム地方へ、そうして一方は海を越えて、
農耕儀礼にまつわる文化の同質性を実感して、 ベトナム人も日本人もルーツは同じだと確信した。
杭州は北京への2500kmの大運河の出発点なのであった。 もっとも、この京杭(けいこう)大運河は「隋」の時代610年に完成したものだが、 日本列島の距離で言えば、長崎から青森辺りまでの内陸を、 つまり首都北京へ、徴収した税の米を運ぶために掘り進んで造られた運河の一端を見れば、 これはとんでもない事で、 やはり、これでは、新天地を求めて逃げ出すのも無理はないよな。 とヘンに実感するのであった。
いまに伝説の残る華僑集団「徐福」の一団なのである。 そうして、近年その伝説の背景が、 中国の徐福村の発見により、事実で在った事が明らかになったのだ。
中国の隋(AC581)と大唐帝国の統一(AC618)の圧政は、 東アジア一帯にもまた大きな影響を及ぼし、同じように、朝鮮半島から多くの移民が、 日本列島に新天地を求めてやって来る訳だが、 そういう島国の一貫した、外発的な特性は今日でも変わりはない。 要するに、島というのは、自己完結しているように見えるが、 実際はインポートの混血文化に変わりはないのである。 いや、周囲を海に隔絶された島であるから、 より一層むしろ切実に、そうでなくては「血」は保てないということを、 本能的に直感しているのかもしれない。 だからこそ、いっぽうで相反する純潔性を旨とするような、 幻想を抱き続けて洗練、または先鋭化してゆくのも、 また島の特性というものなのだろう。
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新天地を求めて、紀伊半島南端に流れ着いた徐福一行は、 様々な大陸の先進文化をこの島にもたらした。 その数中国を出発した時は、3000人とも言われているが、 その人数の実態はともかく途中海流でばらばらとなって、 あちらこちらに漂着したのであろう。 そうして縄文先住民との混血も進んで、時代は一気に転換してゆくのだ。 そんなバカなと、はじめは思ったが、 例えば、北海道の近代を思えば、 当時1万人とも3万人とも言われる、アイヌ先住民の暮らす島へ、 本州各地からどっと入植して、100年後には、500万人の人口となっている。 縄文末期の日本列島の人口は30万人とも言われていたのを、 何処かで目にした事があるが、その数はともかく、 縄文から弥生への転換は、当時としては、食料の大増産であったろうから、 人口も喰える分だけ増加して、一気に「混血」も進んだのであろう。
その文化の痕跡は脈々と息づいているのだ。 いや、紀伊半島ばかりではない。西日本各地から稲作技術と共に伝わった、 「道教」の文化は、われわれの暮らしの中に、いまでもしっかりと根付いている。
それが、縄文から弥生への転換だ。 しかし、この根本もやがて退けられる。 儒教・仏教・景教・密教・そしてまた儒教とかが、ぐちゃぐちゃに入り乱れて、 寛容と非寛容の狭間で、じつに変わり身のはやいのも、 これもまた、島国のインポート文化の特性であり、 宗教は常に権力と一体化して社会に機能していったのだ。 そうした歴史の背景を辿れば、 一方ではかならず「古事記」ではこう記され、「日本書紀」ではこう記され、 とかいう事になるのだが、その盆栽弄りのような堂々巡りは専門家に任せて、 「古事記」も「日本書記」も、じつに貴重なものではあるが、 われわれの暮らしの実感から言えば、極端にいえば、それは「箱物」にすぎない。
その背景に折り重なる、重層的なドラマも見えてくるのであった。
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