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世捨て人の熊野紀行 【11】 

  後鳥羽院の碑 


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中辺路・滝尻王子にて。

    ・・・山河水鳥 

    ――おもひやるかものうはげのいかならむ

               しもさへわたる 山河の水 


これは、後鳥羽院の御製なのだという。

後鳥羽院は、三山詣へ、二十八度も遊ばされて、

王政復権を祈願し、その道中幾度も歌会を催し、歌に思いを託された。

そして承久三年(1221)。
みずから北条義時追討の院宣を下した。

しかし、敢え無くいくさは敗れ、隠岐配流の身となったのである。


   「・・・その後鳥羽院の尽きせぬ情熱を後世に伝えるため

   氏子と篤志家の協賛により、此処に上皇の歌碑を建立する。」

            ―――瀧尻王子遺蹟保存会。



ここより熊野三山の霊域という瀧尻王子の一隅に建てられた、

そのような、有り難い志の歌碑をながめていると、

後鳥羽院と同時代の、安徳天皇のはなしが、脳裏をふと過った。


――後白河院の院政の背景で、

その歳二歳で即位した安徳院は、時の荒波に翻弄されて、

七歳で平家一門と共に壇ノ浦の海へ消えていったのである。




その様は、平家物語巻第十一「先帝身投」で周知の如くだが、

船上の御歳七歳の安徳院は、

山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給いて、

御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあわせ、

「浪のしたにも都のさぶろうぞ」という母建礼門院徳子尼の慰めとともに、

千尋の海の底へ「どぼん」と玉躰をしづめたてまつったのであった。


数え年三歳から八歳までのその御在位は、

まさに穢れを知らぬ、真に尊いお姿としか謂い様が無く、

たれもがその悲劇に涙を禁じえないのであった。


しかし平氏は、このように幼い安徳天皇を擁し、

三種の神器ともども西海へ落ちていったのだ。


この島の利権を巡って、こうして権力の座にある者たちは、

自らの権力の正当化という、理屈では押し諮れないものを、

常に「天皇」という存在に仮託したのである。

ゆえに歴代天皇継承の推移を俯瞰すれば、時代の転換する毎に、

時の権力者の思惑に翻弄される天皇の苦悩が見えてくる。


そうしてこの悲劇の安徳院のいっぽうで、

失われた剣璽を帯びない異例の即位となったのが後鳥羽院なのだ。


限りなく変容して留まることを知らない政変の混乱を、

正常化し変革するには、

ひたすら歌の道を究めることでもあるという実感をお求めになるように、

院は狂ったように幾たびと三山にお遊びなされ、

「新古今和歌集」勅撰の命をくだし、空前絶後の「千五百番歌合」催した。


――ええっ、また熊野詣ですか。かんべんしてください。
そういう定家の嘆きも聞こえるようだが、
院は憑かれたように熊野御幸を究めつつ、
みずから変革への意を深め
て、北条追討の院宣を下したのである。


これこそ文武両道の丈夫振り。

「しきしまのみち」とは、かくあるべきということを、

後鳥羽院は後世に示されたのである。


   おく山のおどろの下もふみわけて道ある世ぞと人にしらせむ 


――そういう出来事の背景に潜む子細を、今日では、


■保田與重郎『後鳥羽院』

■堀田善衛『定家名月記私抄』


などの名著に導かれて、知ることが出来る。


・・・そうして、徒歩では叶わぬが途中バスに乗り、

よやく訪ねることの出来た、熊野本宮であったが、

ここでも、やはりというか、

後鳥羽院の歌碑が、参詣者を見守っているのであった。


   はるばるとさかしき峰をわけ過ぎて音無川を今日みつるかな  



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