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世捨て人の熊野紀行 【12】 

  熊野水軍のこととか


壇ノ浦合戦の物語の様子は、

「安徳天皇縁起絵図」にも描かれているが、

波間に漂う船団こそは、「熊野水軍」なのだ。

「熊野水軍」は当時紀伊半島から瀬戸内海の制海権を握っていたという。

その海賊衆ともいわれる、水軍を統括していたのが、「熊野別当」なのだ。


海ゆかば、海賊。山ゆかば、山賊。

その「熊野別当」には、

源氏とのつながりをもつ、「新宮別当家」と

平氏とのつながりをもつ、「田辺別当家」があったという。

しかし源氏平家の決戦にあたって、

平氏方であった田辺別当家の「湛増」は、源氏方へ就いた。

この瞬間、平氏の運命は既に定まったのだ。


この意思決定を「湛増」はニワトリ占いで決めたのだという。

まことに変わり身速く、しかも都合のよい理由を考えるものだ。

湛増の家ニワニワニワニワニワトリが居たのか。

いや、そうではない。

田辺には「闘鶏神社」という由緒あるお宮があったのだ。

ならば、さっそくそのお宮へ行って見なくてはならない。




世捨て人の熊野紀行 【13】
 
   闘鶏神社にて 

――源平の戦いは一の谷の合戦から海上戦に移り、

当時最強を誇った熊野水軍の動向が、

その勝敗に大きな影響を与える事となり、

熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する

源平双方の働きかけは激しさを究めた。

義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、

父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽紅い鶏七羽を闘わせて、

神意を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体

(にゃくおうじのみしょうたい)を捧持、金剛童子の旗をなびかせて

総勢二千人、二百余の舟に乗って堂々と壇の浦に向って出陣、

時に文治元年(1185)三月のことであった。

――以上闘鶏●神社碑文より。

湛増弁慶の父子像にはこう記されている。

田辺はいにしえより、

多くの伝統芸能等で武勇譚となった武蔵坊弁慶誕生の地なのだそうだ。

しかし、それは弁慶だけの事ではない。
・・・たとえば弁慶の出自なのだ。

そしてその伝説に一歩踏み込むと、

熊野三山独特の「生」と「死」にまつわる、

迷路のような世界に迷い込んでしまう。


「天人五衰」と「熊野本地」。

「安珍・清姫」と「道成寺」。
「小栗判官」と「照手姫」。
・・・・・。


それは、現代から見ると、どれも極めて異様な話ばかりなのだが、

その異様さとはいったい何なのか。

どうしてそういうことになるのかとか、そんな事を、思う矢先に、

海・山・川そして森の風景は、またあらたなる謎の舞台となってゆくのだ。

だから、それはこの際、宿題として、

七五三詣でにぎわう闘鶏●神社を後にすると、

市街地なのに、社殿背後の仮庵山(かりほやま)という、

鎮守の森の大木が目の前に現れて、びっくりした。




明治の偉人南方熊楠は、この場所の事を、「クラガリ山」と呼んだそうだ。

クラガリとは闇のことだろう。

そこにもやはり、
なにかワケがアリありそうではないか・・・。



  (●闘鶏神社の「トリ」の旧字は旧ソフトで変換出来ないのでお許しください)

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