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ノッカマップ悲しみの岬 


――いまでは、ちいさな燈台がぽつんと原野に立っているだけだが、
かつてここノッカマップはアイヌの拠点であった。
アイヌはここから、 クリル諸島(クリル人の島=アイヌの島=千島列島)
・カムチャッカ・サハリン・シベリア へとオホーツクの海を自在に往来していた。

しかしロシアの南下を恐れた徳川幕府による「場所請負制」の「根室場所」会所が、
ノッカマップに設置され、先住民族アイヌの悲劇は起こった。
寛政元年(1789)5月7日、和人の搾取・抑圧に対して蜂起した、「クナシリ・メナシの戦い」だ。
――「場所請負制」の現実は、奴隷制・アウシュビッツの強制労働を思わせる、
アイヌの生存権そのものを否定するものであったろう。

幕末のアイヌ人口が広い北海道全体で僅か3万と言われる・・・。
この謎の一端が、 この面からも読み取れないか。
・・・蜂起した若者は吟味され、首謀者37人はここで処刑された。
その折に若いアイヌが騒ぎ出し、この丘は呪いの声(ペウタンゲ)に覆われたという。
しかし不思議な事に、コタンの首長は、誰も処刑されずに無罪放免となり、
また場所請負人「飛騨屋」も没収、真相は闇に葬られた。
そもそも管轄する松前藩には広大な蝦夷地管理の能力は無く、
徳川幕府はこれを機に、直接蝦夷地の管轄に乗り出す。
その拠点が蝦夷三官寺だ。

――納沙布岬には、この事件で死亡した和人の慰霊碑「寛政の蜂起和人殉難墓碑」がある。
しかしいっぽうで、こうしたアイヌ受難の歴史は、 いまでも忌避されているのが現実であろう。

毎年9月、このノッカマップでは、 37本のイナウを捧げる慰霊祭(イチャルパ)がおこなわれているという。

・・・こういう事があって以降、「根室」は現在の場所へ移ったのだ。


■・・・秋晴れの爽やかな朝、ノッカマップ燈台を訪ねた。崖下の浜には、3.11で漂流した真新しい漁具が流れ着いていた。
■北海道から
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