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良寛は海を見ていた

  ♪あなた 追って 出雲崎〜
  ♪悲しみの日本海〜 

こんな歌が流行っていた頃、その演歌を口ずさみながら、
日本海沿岸の町、出雲崎に辿りついていた。

  ♪悲しみの日本海〜

どうして演歌の日本海は、悲しみの日本海なのか。

出雲崎といえば、江戸時代後期、
「良寛」(1758-1831)が生まれ、そして晩年を暮らした所だ。
良寛の生涯を、ちょっと齧ると、
その頃の越後地方は、人口で言えば江戸よりはるかに多く。
――そうだよね。面積が比較にならなく広い。

多くの人を養える、米どころ越後平野は、酒も旨い。
良寛さんがふらふらしていても、食うには困らない背景もあったのだろうか。
昔から越後は豊かな土地なのだ。

しかし、豊かさの裏には常にリスクもともなう。
「米」に特化された制度は、冷害等気候変動に脆かった。
良寛をめぐるものの見方も、そこに問題点が潜んでいるような気がする。

近代以降、東京中心の見方に偏りすぎて、いつの間にか、
日本海側は裏日本という、演歌のイメージも定着された。
・・・というのも東京中心の印象だけど。
・・・しかし、もう少し広く世間を観れば、
上野発の列車が、国境の長いトンネルを越えると、そこは雪国だった。
なんていう以前は、ヤマト国が誕生する前から、日本海に沿って、
交易ルートは津軽の十三へと続き、
日本海沿岸は太平洋側よりもはるかに活性化していたはずだ。
そんな事を我々は忘れてしまっている。



良寛の「天上大風」の掛け軸の複製。
その書の醸し出す、何とも言えぬ味わいに、見れば見るほど、
ひたすら感動を覚えるのも、越後平野なのだが、
この書を書いた時も、じつは、
三条大地震(1828・文政11年)のあとの廃墟の風景が拡がっていたのだという・・・。

何故、そんな事が気懸りになったかというと、
地元の旧友の案内で「良寛」の旧跡を30年ぶりに巡って、
友人の家の二階で休んでいた時、雨上がりの雲の切れ間に拡がる、
異様な西空の光景を眺めていたからだ。
それは夕陽の差し込む雲に出来たポッカリと開いた筒状の巨大な空洞だった。
時刻は夕方の4時25分頃。空の様子があまりにも不自然だったので、
その時の他人の部屋の置時計の時刻も忘れられないのだ。

いまでは、
それは柏崎上空に出現したプラズマの塊を見たのだと思っている。
見てしまったものは、どうしようもない。



翌日(2007・平成19年7月16日)、
友と別れて上越新幹線に乗ると、長岡を過ぎて、新幹線は大きく揺れた。
それは震度6を記録した地震で、
急停車した列車はトンネルに入ってやっと止まった。
やがてノロノロ運転で越後湯沢までトンネルを脱出するのに、
普段10分位で通過するトンネルも一時間位かかったような気がする。
これは、ヤバイと思って、ホームの売店へ駆け込み、水と食料を確保しようとしたが、
買えたのは、おツマミの「ちくわ」だけだった。

友人との連絡はそのまま途絶えたが、
後に、その地震でケガをした事を知った。

そういう訳で、出雲崎の良寛堂から、
分水・国上山の五合庵・乙子神社・弥彦と巡ったその旅は、
「天上大風」ではなくて「天上プラズマ」になってしまった。
買い込んだ「良寛」さんの参考書も、そのまま放置されたままになってしまった。



それと、思い出したが、もうひとつ記憶に残ることがあった。
それは、良寛よりも、およそ百年前に生れた「芭蕉」(1644-1694)の、
「荒海や佐渡によこたふ天河」の句についてのことだ。

出雲崎には、この句に因んで公園があり、芭蕉の銅像も在った。

・・・・・・・・・
――いや、この句を読んだのは、元禄二年七月七日だ。
――いや、その日の天候は雨で「天の川」は見えない。
――いや、その前日もその前も、雨で「天の川」は見えるはず無い。
――いや、これまでの道中に見た景色を詠んだ句ではないか。
――いや、夏の日本海は「荒海」なんかではない。
――いや、沿岸から見ても天の川は「佐渡」には横たわらない。
・・・・・・・・・

そういう、やかましい雑音を何処かで目にしたが、
そのせいだろうか・・・、
公園の「芭蕉」さんの銅像が、
なんとも小ぶりに見えるのが妙に気懸りであった。



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