|
●道の駅「陸別」
ふるさと銀河線の陸別駅は「道の駅」である。 駅・売店のほかに、宿泊施設もあり、旅の人たちで賑っている。 陸別は日本でいちばん寒い町だ。「しばれフェスティバル」のある冬は、放射冷却で最低気温が-30度を超える。この気候特性を生かして、近年設置された「銀河の森天文台」は、オーロラの発生や流星群観測のニュースを全国へ発信するロマン掻き立てる町だ。 北見への道中、わたしはトイレを利用するために「道の駅」へ立ち寄った。 ついでに飲料を求めてレジへ向かうと、町の観光案内の傍らに、「関寛斎」という冊子があったので、ここが「関寛斎資料館」となっていることを知った。なんとなくその冊子も一緒に買い求め、仕事で人と待ち合わせる北見へ急いだ。
|
|
|
●北見の宿で「関寛斎」のパンフを読む。
仕事を済ませて北見の宿で所在無く、陸別駅で求めたパンフレットを見た。維新の群像と大きく描かれた長崎の海と関寛斎。陸別町との関係は何か。冊子を拾い読みしながら、後半の年表を追うと、関寛斎には8男4女あわせて12人の子があり、6人は若年で亡くなっている事がわかった。しかし「伝記」の記述と、「年表」の表記が、微妙に違うので、わたしのアタマは混乱してきた。「誤植ではないか」それとも「読み違えか」と同じ処を幾度も堂堂巡りしているうちに 「関寛斎」という人の生涯に引き込まれていった。
関寛斎(1830〜1912)。
幕末の上総に生まれる。
18歳で蘭方医佐藤泰然の順天堂へ入門。
郷里へ戻った後、銚子に医院を開業したが、
浜口梧陵の支援で長崎へ留学。
ポンペ先生から蘭学を学ぶ。
33歳で阿波藩の御典医として徳島に招かれ、
戊辰戦争では病院頭取となり、東北地方の野戦病院で活躍。
戊辰戦争後は徳島へ戻り名も寛(ユタカ)と改め、
海軍省や甲府の病院長を一年勤めたりするが、
明治6年あっさりと禄籍を返上、
地位を捨て、一平民となる。
町に診療所を開き、貧者には無料で施療にあたった。
しかし72歳の時、40年暮らした徳島の生活を清算し、
四男又一と共に「陸別」へ入殖。
以後10年陸別の開拓に夢を託す。
明治45年天皇の崩御により7月31日で明治は終わるが、
9月の乃木夫妻の殉死からひと月後の10月15日。
寛斎は82歳にして服毒し自らの生涯を閉じる。
・・・72歳で未開の原野開拓へ旅立つ事も大変な決意だが、
82歳で自ら命を絶つ事も尋常ではない。
|
いったいこの方は何者なのか・・・。
「波乱万丈の生涯は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』の主人公の一人として描かれ・・・云々」とあるが、
冊子を一読すれば、
駅の「トイレ」を利用しただけの通りすがりの者も、
その生涯を振り返らざるを得ないインパクトを持つ。 |
翌日は日曜日であった。
わたしは予定を変更して、「忘れ物」を取りに帰るように「陸別」へ戻った。
早朝に北見を立ち、朝の陸別駅へ着いたが、「関寛斎資料館」の開館時間は9時半という事で、
パンフレットに記載された寛斎の旧跡を巡る事にした。
駅前の広場には、関寛斎を訪ねた文人徳富蘆花の「文学碑」がある。 |
|
|
●徳富蘆花文学碑 |
|
碑 文
北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、 秋雨寂しい利別川の谷を北へ北へまた北へ北へとって駛って、 夕の四時淕別駅に着いた。 明治四十三年九月二十四日、網走線が淕別まで開通した開通式の翌々日である。
今にはじめぬ鉄道の幻術、 此正月まで草葺きの小屋一軒しかなかったと聞く淕別に、 最早人家が百戸近く、旅館の三軒
料理屋が大小五軒も出来て居る。 開通即下のごったがえす淕別館の片隅で、祝の赤飯で夕飯を済まし、 人夫の一人に
当年五歳の女児鶴、一人に荷物を負ってもらい、 余等夫婦傘を翳してあとにつき、斗満の関牧場さして出かける。
|
|
五歳の女児鶴とは、兄蘇峰の末女で蘆花の養子となった子だ。 蘆花はこの頃妻愛子と鶴と三人で日本各地を旅している。
文学碑を見ると、鉄道が開通した頃の町の情景が目に浮ぶようだ。 碑文に引かれて、関寛斎入殖の地、「斗満の関牧場さして出かけ」ようではないか。 と思って、地図をひらくと、 遠く石狩岳からの稜線が三国峠を通り、十勝國と石狩國と北見國を分け、 キトウシ山の近くで斗満川が国界となり、十勝國と釧路國を分けていることに気付いた。 なるほど、それで「陸別」と言うのか、とわたしは勝手に納得した。 一般に国の境は山の稜線を分岐とする事が多いと思っていたのだが、 ジャブジャブと歩けば10歩ほどで渡りきる斗満川の地図上に引かれた国界を見て、 これをあえて「国界」と定めた頃の、採りとめもなく続く未開の大地を想像した。
何処かで、境界を定めねばならない。
しかし何処まで行っても、果てしなく続く原生林、 もういいかげんに、この辺りでいいや。と思った場所が、斗満川であったかどうか知る由もないが、
そんな感じである。
それほど、この辺りは、海からは遠い奥地であったのだ。 |
|
●陸別の由来 「リクンベツ」 →アイヌ語・意味は「鹿のいる川」又は「危ない高い川」 →開拓使の当て字「驪群別」 →「淕別」と書いて(リクンベツ)と読む。 →昭和24年以降当用漢字制定に伴い「陸別」(リクベツ)となる。 (http://www.town.rikubetsu.hokkaido.jp/index.htmlより) |
|
斗満駅逓所跡辺り |
●関寛斎入殖の「駅逓」跡。
開拓のはじめ、人々は海から十勝川を遡った。
さらに支流の利別川を遡る。
喜登牛山からの清流・斗満川が利別川に合流する辺りまで、
太平洋の河口からは歩いてどの位の道程であったか。
町から川に沿ってひと走り。
斗満川の橋を渡ると、なだらかに開けた牧草地が拡がる。
この辺りが地図に在る「関」という場所だ。
開拓の一歩を記した一行は、「駅逓」を作った。まずその跡を訪ねた。
しかし、辺りを探しても、それらしき標識がない。
見渡すと、道の向こうの小高い土手に、花壇と墓石のようなものを見つけたので、きっとこれだろうと思って、その石にお参りを済ませた。 |
|
さいわい近くの農家に人影があり確認すると、
「いいえ、違います。あれは馬頭様です。この辺りの馬の供養塔です」
と教えてくれた。 「駅逓跡の標識は無いのですか」 「いや、在ります。はい確かに、それは在ります」 と言いながらご近所の方は、ちょっと背伸びして、 「そこです」と目の前の道端を指差した。
「そこの道端の木の脇に確かに立てかけてある筈です。・・・」
「去年か一昨年の大雨で、朽ちて倒れたので、立てかけて措きました。はい、確かにいまも在る筈です」 呆気にとられて、目の前の道端をよく見ると、確かに木の脇に立てかけられた標識があった。 |
|
「当時の関さんの御親戚の方はこの辺りに居りますか」 「いまはもういません」 「そうですか・・・開拓当時の跡はもう無いのですね」 「いや、在ります。はい確かに、それは在ります」 「あの放牧地の赤い屋根の隣の建物はセキさんが建てたものだと言う事です。」 「そうですか。ご親切ありがとうございます」とお礼を言った。 放牧地の一角に建つ廃屋を、夏木立のむこうに認めて、わたしは妙に納得した。
●2002年10月15日関寛斎の入殖100周年の記念事業が「白里忌」の10月15日に「寛斎セミナー」として開かれた。 寛斎が拓いた理想郷とその開拓精神を顕彰したシンポジウムが催され、ゆかりの人々が寛斎の偉業を偲んだという。 青龍山のふもとには新たな記念歌碑 「いざ立てよ野は花ざかり実のむすぶべき時は来にけり」
が建立され、上記の駅逓の跡にも案内板が設置された。
|
|
資料館にある「斗満駅逓所」のミニチュアと間取図。右手前の一室が寛斎の部屋とある。 |
●「駅逓」とは・・・
宿泊のほか,馬などを用意するところ。郵便逓送の業務も兼ねた。 江戸幕府は蝦夷地を直轄としそれまでの「運上屋」を「会所」と改める。 明治以降もその制度は「駅逓」として継続された。 明治33年北海道の「駅逓」規則を制定。道路の開削とともに増設され、この制度は昭和22年まで続いた。
|
|
信常寺は牛舎の脇の森の中にあった |
●中斗満にて
次に蘆花の歌碑があるという、中斗満の信常寺跡を訪ねた。 駅逓の跡から川沿いにおよそ4キロ、見通しの良い交差点には、「中斗満小中学校」が建っていた。日曜日で学校は休みかと思ったが、お寺の跡を尋ねるために、人を探して校庭に立つと、足元の地面が僅かに、こんもりと盛り上がっていることに気付いた。さらに辺りを見ると、霜柱を踏んだような轍の後が、くっきりと校庭を横切っていた。それで此処が閉校となって幾たびの冬を越えた事を知った。 生徒達がいなくなった校舎は、一層の静寂に包まれている。 近くで牛が鳴くと、それを合図に近所の犬が一斉に吠え出した。 |
|
「信常寺の跡」
明治41年3月世並信常、
真宗大谷派斗満説教場を創設し
開教につとめると同時に寺小屋を開設し
開拓者の子弟を教育する。
大正2年本堂を建立し後に信常寺と公称する。
斗満に於ける教育文化発祥の地となる。 |
|
関神社の写真。資料館にて |
●ユクエピラチャシ(青龍山)に立つ。
やはりご近所の方に教えられて、川向にある青龍山へゆく事が出来た。木の間隠れに陸別の町を見下ろす小高い丘に立つと、いつか来た事があるような錯覚に陥る。それは典型的なアイヌの城跡「チャシ」であった。 青龍山は別名ユクエピラチャシといい、国の史跡となっている。その昔アイヌの古城であったらしく、今発掘調査が行われている。地層から推測すれば、この遺構の起源は1600年代以前にも遡ることらしい。
寛斎が亡くなると、妻アイの遺骨と共に、この丘の一角に埋葬されたという。調査中の足元に注意して、お墓に辿り着いたが、先ほど訪ねた馬頭様よりも小さく、ささやかな土饅頭が二つあるだけで、墓碑銘も無く、誰のものかも定かではない。しかし他に其れらしき物もないので、やはり妙に納得してお参りした。
|
立派な寛翁顕彰碑 |
陸別町の人々は、ここを「関神社」として先人の徳を偲んだのだ。 お堀の向こうの木陰には、大きな記念碑が斗満原野の方を向いて建っていた。昭和10年代の建立で、そのスタイルは、やがて起きる太平洋戦争の時代背景を思えば、これも納得がいった。
・・・しかし、わたしは、朝から納得ばかりしている自分が不思議になっていた。 たとえばこの青龍山である。パンフレットに記載された案内図は、じつに明解なのだが、実際に行って見ると、人に訊かなければ簡単には辿りつけない。はじめに訪ねた駅逓跡。中斗満のお寺の跡。同様にじつに素気なく、在るがままという感じで佇んでいる。それがかえって謎解きのようにも感じられ、足はつぎへと向かうのだが、すぐ其処に在ると分っていて、実際は、在るのであるが、行ってもなかなかいけない。 |
ユクエピラチャシのお堀 |
・・・そこに、ご近所の方が偶然現れ、とても親切に教えてくれる。それで旧跡へ辿り着くと、改めて「なるほど」と納得するのであった。これは一体どうした訳か。さらに、この青龍山の記念碑にしても、敢えてそっぽを向いて、木の陰を選んだような位置に立っているのだ。
この疑問を解決するためにも、やはり「関寛斎資料館」へ急がなくてはならない。そう感じて、わたしは再び道の駅「陸別」へ戻った。
関寛斎資料館を訪ねる。 |
関寛翁辞世の歌碑がある正見寺 |
●「ガンビ」さんを訪ねる。
|
駅の売店で食事の出来る店を訊ねると、近くのうどんやさんを紹介された。うどんやさんへ入ると、 「どちらからいらっしゃったのですか」と聞くので、 「ちょっと関寛斎を見てきたのです」と言った。 ご主人は急に親しげに「そうですか。ガンビさんへ行って来たのですね」と納得しているので、意味が判らないままに「駅にある資料館へいってきたのです」と言うと、ご主人も奥さんも「それではガンビさんへ行くといいですよ」と声を合わせた。 「しかし見ず知らずの者がガンビさんという人の家へ日曜日にイキナリ行っていいのですか」 「はい。大丈夫です。ガンビさんは画廊です。日曜日も開いています。すぐ其処ですよ」
|
|
|
「なんだ、ガンビというのはお店の名前ですか」 「ああそうか、ガンビね。白樺の皮の事だよね」 わたしはガンビさんより、はやくウドンを食べたかったのだが、 なかなか注文を聞いてくれない。 「趣味でやっているものですから」とマイペースなのである。 しかし、ようやく出てきたうどんは、心尽くしの美味しいうどんだったので、「ガンビ」さんを訪ねなくては、うどんやさんのご夫婦にも申し訳が立たない気持ちになって、 次の瞬間はもう「アートサロンガンビー」にいた。 「ガンビー」さんについての知識はなにもなく、 陸別町の開拓の父である関寛斎に興味を持った、とは言うものの、キッカケは、たまたま駅のトイレを借りただけでは、あまりにも不謹慎としか言いようがなく、軽率そのもので、つぎの瞬間、また後悔したのだが、 |
通りすがりの闖入者に、ガンビーさんご夫妻はお茶を入れて温かく迎えてくれた。 画廊では大雪山の写真展が催されていたので、取敢えず展示された写真を見せてもらった。 しかし、わたしは他人の個展の写真を見て 「これはご主人の撮った作品ですか」とか頓珍漢なことを言いだしたりしていた。 そして「うどんやさんで、ガンビさんへ行きなさいといわれたもので」 とか言い訳をしながら、 「駅で買ったパンフを読んだのですが、七男又一が四男とありますので混乱しまして・・・」 と「誤植」を指摘するように訊ねたのだった。 「6人のお子さんは、早くにお亡くなりになられたので・・・」 ガンビーさんの穏やかな言葉に、わたしはハッとした。 文字面に囚われて、知る事と理解する事の違いを忘れていたのだ。 |
名刺を頂くと「ガンビー」さんは陸別町の関寛斎顕彰会事務局である事がわかった。 「寛斎に興味を持ったのですが、町で文集とかは手に入りますか」と尋ねると、 「どうぞお読みください」と顕彰会で発行した寛斎の「遺訓集」と「歌集」をくださるのだった。
ガンビーさんでいただいた寛斎の貴重な「遺訓集」は、わたしの「宿題」となった。 「遺訓集」を読むと、一言一句に「明治」という時代が、生き生きと蘇るようであった。 それと同時に、寛斎の旧跡を巡りながら咄嗟に感じた、 謎めいた不思議な印象が、自分の中で、しだいに解けはじめていた。 通りすがりの者が感じた、謎めいた不思議な印象・・・それは、寛翁の「遺訓」や「志」をうけとめた、 陸別に暮す人々の、先人への「配慮」によるものであったことを、ようやく納得する事が出来た。 |
|
●陸別町「郷土史研究」を読んで知ること。 関・殖産・共栄・川向・下斗満・中斗満・上斗満・東斗満・北斗満・西斗満・苫務・本苫務。 斗満川流域の集落はいまも、開拓当時のままの地名だ。 明治の終わりから大正にかけて、開墾はめざましい速度で進んだのだろう。 郷土誌を読むと、改めて地域を拓いた人々の多くの苦労を知る。 中斗満に、人々はまずお寺を建て寺小屋とし、次に学校を造った。 地域のために労働とお金を持ち寄り、公の建物や道路に、自らの資金を出した。
「信常寺」 明治42年の2月世並信常氏が中垣内氏とともにお寺の建設に着手、 開拓民の子息を集め寺小屋を開いた。 教材もない中で、朝は付近の子弟にイロハの読書ソロバンを教え、昼は土地を拓き食物の確保。 蘆花の訪れた頃だという。 昭和22年「信常寺」となるも三代目住職の死去に因り廃寺となった。
「中斗満小中学校」 明治44年9月8日に生徒数22名で開校。 大正5年新築された堂々たる新校舎も奉仕手作り。先生2名に生徒百数十名。 敷地を寄付して学校を誘致した伊部氏は幹線道路を請け負ったが、 地盤が悪く、資産をつぎ込み挫折する。・・・ その後昭和22年に中学校を併置したが平成8年閉校となった。
何も無い場所を在る場所とする試行の連続は、いっぽうで挫折の連続でもあった。 縁あって地域で労苦を共にした同志の、消長を記す事は傷みも伴う事であろう。 しかしここ陸別では、その嚆矢となった寛斎が自ら実践して、多くの「言葉」を残した。 「初めにことば、Logosありき」である。
陸別は、すばらしい都邑と田園です。
寛斎の志の存するところ、
ひとびとが不退の心で拓いたところ、
一木一草に、聖書的な伝説の滲みついたところです。
司馬遼太郎が「町史」の発刊に贈った言葉の意味を、わたしは「郷土史研究」を読んで改めて実感した。
|
|
■関寛斎資料館を訪ねる(5-2) |
■関寛斎資料館を訪ねる(5-3) |
■関寛斎資料館を訪ねる(5-4) |
■関寛斎資料館を訪ねる(5-5) |
|
|
北海道から |
Copyright c 2001-2012 Nakayama. All rights reserved. |