■幕末佐倉藩医。前列左から二人目が佐藤舜海。後列右・関寛斎。(以下写真は陸別関寛斎資料館にて)

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 関 寛斎 入殖の跡を「陸別」に訪ねる。(5-2)

維新の群像に迎えられ資料館へ一歩足を運べば
そこは幕末の頃の世界だ。

●入館券。
駅の売店脇の自動券売機に百円玉を二つ入れると、パサっと資料館の入館券が出てくる。
券を見開くと関寛斎の生涯が判るようになっており、
この券だけでも200円(2001年当時)以上はかかっているのではないかと思うと、
寛斎を想う町の人々の気概が伝わって来るようだ。
急ぎの方は、道の駅陸別を利用した折に、この券を購入する事をお奨めします。
200円で「入館券」を読んで、ふたたび陸別町へ戻る気概があるか、自らを試すこともムダではない。
人生に回り道はつきものなのだから。

資料館はいくつかのコーナーに分かれている。
ゆらぐ鎖国と先人達。寛斎医をもって立つ。明治維新の激動の中で。徳島の日々。
蝦夷地の開拓。斗満原野を拓く。斗満の暮し。そして資料コーナーだ。
目録によれば細々と450点余りあるが、
波乱の生涯を象徴したアイテムは多岐にわたり、あれこれ想像を廻らせ飽きる間が無い


●医をもって立つ
十八歳の寛斎は佐藤泰然の「佐倉順天堂」へ入門した。
「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極めていた。
若き寛斎の記述した「順天堂外科実験」に手術例が詳しく記載されているという。手術はいずれも麻酔薬を使わない手術であった。とても痛い。などと言っている場合ではない様子が、横たわる患者さんを取り囲む医者たちの「絵」からも伺われる。
安政年間院内に掲示された「療治定」の写しを見ると、卵巣水腫開腹術、割腹出胎術とある。嘉永4年(1851)12月26日、泰然の助手として寛斎は日本初の「膀胱穿刺」手術を経験する。乳ガン手術、種痘等々、「佐倉順天堂」での蘭学による先進医療の説明は、見学者に不意打ちに似た衝撃を与える。

●佐倉順天堂「治療定」

治療規定及び治療費
(一部抜粋転記)
出産手術(門弟による)  金二百足 (約13700円)
但し難産で手間取る場合   金五百足 (約34000円)
きりきず・刀きず  (一寸につき) 金百足 (約6800円)
眼病 一通りの治療 銀十匁 (約4600円)
やけどの治療 銀七匁五分割 (約3400円)
舌の腫瘍の手術  金千足 (約68400円)
乳癌摘出手術  金千足 (約68400円)
手足切断手術 金三両・五両 (約82000円・136800円)
卵巣水腫開腹手術  金十両 (約273700円)
帝王切開手術 金十両 (約273700円)
白内障手術 金千足 (約68400円)
その他の治療一般一通りの治療  銀十匁 (約4600円)

●明治維新の戊辰戦争の従軍、徳島での40年に亙る医療活動の日々を経て、
72歳の明治35年。札幌農学校で学んだ四男又一と共に陸別開拓へ。

●創業開拓の日々
 「創業記事端書」を読むと、開拓へ向けて寛斎は突然自宅を閉じ、隣接する穀物蔵に莚を敷き、老夫婦揃って耐乏生活の予行演習を始める。子供のごっこ遊びなら未だしも、齢70を越えた寛斎の挙動に、ご近所の方々は、気が触れたのではないかと、さぞ驚ろかされた事であろう。
未知の大地の開墾の実際は大変であった。ハエ・蚊・虻・ダニが生き物の体温目掛けて殺到する。飛蝗・鼠・兎が作物を食い荒らす。羆が牛馬を襲う。そして、厳しい北海道の気候である。油断する暇が無い。医者として住民の治療に当り、牧場の経営を軌道に乗せる為に、先行者の農場を訪ね、高齢を自覚して、自らの健康法を編み出して、日々実行する。その労苦は経験したもの以外には判り様が無いが、モデルルームの床の間に置かれた「小鼓」を見ると、こころ和まされる。


鉄道が開通した頃の陸別駅周辺

●同年五月、斗満原野三百萬坪餘の貸付許可を得たり。・・・「三百萬坪」ってどのくらい。


メートル法に換算すると、
約9990000u=約10ku=約1000ha。
陸別町 608.81ku。帯広市 618.94ku。
札幌市 1121.12ku。東京都千代田区 11.64ku。
皇居 100ha。の10倍。
東京ディズニーランド 51ha。の約20個分の原野を「素手」で開拓しようというのだから、気の遠くなる前に、個人では不可能なことは自明であった。

寛斎は「美的百姓」として武蔵野へ移住した蘆花を訪ね、また蘆花から共鳴するトルストイの話を聞いたりする。

資料館の寛斎モデルルーム
・・・ヤースナヤ・ポリャーナの農村へ帰ったトルストイは、求道者としての自己矛盾から、晩年には私有財産を否定した。最後の年の1910年10月28日82歳の身で夫人との葛藤で家出し、十日後、田舎の小さな駅アスターポヴォで生涯を閉じた。明治43年の事だ。・・・
十勝でも進んで先行する開拓者達を訪ねた寛斎は、成功事例のひとつである豊頃の二宮農場の営農方法に共感する。
「予が実行せる中等自作農家奨励の計画」
「積善者趣意書」など自作農育成の理想を掲げる。
しかし実際の処は、70歳を遥かに越えた寛翁に、現場の労働は、無理と言うものだったろう。温暖な房総半島で育った寛翁の老後に、いきなり開拓の頃の陸別の冬への適応は厳しすぎる。関牧場創業記事が途切れる第5章以降、息子又一の結婚した後は、寛翁は冬の間、毎年上京している。
妻の死・又一の出征・冷害・多くの馬の病失等々。創業のいくつもの試練を乗り越えたという実感を想像する。道筋は示した。あとはよろしく頼むということもあったであろう。

斗満原野を拓く
明治42年には600萬坪以上にもなった関牧場の広大な所有地は、やがてそれ自体が他の入殖者の妨げとなる。そして農場経営の方法を巡って、親と子の考え方にも、世代ギャップが生じる。その所有面積が徳島市の総面積のおよそ10分の一を遥かに越えると、数字だけ聞かされたら、徳島に暮す親戚が、財産分与を求めて訴訟を起こしたりする事も、とても人間的な事だ。
そうして幕末より半世紀たった明治は終わろうとしていた。
時代は目まぐるしく幾度も転換したが、つねにその先端の「現場」に居たという自覚が寛斎にはあったはずだ。ゆえに寛斎にとって、進路を巡る家庭内のもめごとは、あまりにも次元の違うことであったに違いない。


●寛翁と関牧場の10年。

東金・佐倉・銚子・長崎・徳島・山梨・徳島・陸別・・・
とつづく寛斎の足跡
西暦 明治 年齢
1902 35 72 馬52 牛7 1h 寛翁8月10日来場。
1903 36 73 馬40を失う 馬95 牛10 畑4h 牧場20h
1904 37 74 馬56を失う 馬67 牛14 寛翁種痘250人
    妻あい札幌にて没。7月・10月二宮尊親牧場を視察。
1905 38 75 又一出征・日露講和 積善社趣意書を発表
1906 39 76 6月函館へ 又一結婚
1907 40 77 11月東京へ
1908 41 78 4月5月蘆花を訪問。10月〜翌5月東京へ。
1909 42 79 馬140 牛80 面積600萬坪と新聞に記載。
          12月〜翌4月東京へ
1910 43 80 馬180 牛96 開墾553h 
          鉄道開通。蘆花来訪。12月〜翌4月東京へ
     親子で協議斗満牧場株式会社設立。トルストイ没。
1911 44 81  蘆花を訪問。
1912 45 82 明治天皇崩御。10月15日服毒自殺。



諸ともに契りし事も半ばにて
斗満の里に消ゆるこの身は
八十三老 白里
辞世の歌を読んだ短冊
●寛翁短冊の歌。

「号」の白里とは、出身地の九十九里浜を思えば納得する。しかし最晩年の短冊に「憂き事」という字が並ぶのを見ると、やはり見ているほうとしても、気になるのであるが、これを見て寛斎の死を悲劇ととらえるのは、ちょっと見方が甘い。トルストイも去り、天皇の崩御と乃木夫妻の殉死は、時代の転換を改めて実感させる事でもあったろう。そして寛斎は医者である。陸別の冬をまえに、みずからの身体の分を弁えていたはずである。この厳しい自己完結こそが、失われてしまった「大和魂」なのであろうか・・・。短冊の前でそんな事を想っていると、霧が晴れるようにひとつの歌が目に止まった。

   遠く見て雲か山かと思ひしに
     帰ればおのが住居なり

箱庭のような島国の各地を巡った果てに、草莽の気概を持って北の大地と格闘した寛翁にとって、このような壮大な歌を、ひとたびはうたいたかったに違いない。ディズニーランド10倍の553haの開墾への感慨は、老荘の宇宙観とも一体化する。何故かわたしは蝦夷地を旅した同時代の画家、鉄斎最晩年の一画の絵を思い浮かべていた。山合いの道を飄々と、まるで万有引力の法則に乗ったように歩いている老人「栄啓期」が、何時の間にか寛翁とダブってしまうのであった。


キトウス山を越えて石狩十勝両嶽の間に未開地を採らんとて

憂きこと久しく堪ふる人あらばともに眺めむキトウスの月

心ゆくみ山かくれのふしどにも同志浮世の夢を見し哉

野分けする秋の嵐のたたぬまにいかでか我は露と消えなん

身は消えて心はのこるキトウスと十勝石狩両たけの間


■関 寛翁の「創業記事端書」
 そして「関牧創業記事」を読み感動する。

■ここで、寛斎を巡る明治の偉大な人々 
 「泰然・梧陵・蘆花」の生涯を辿ってみよう。

■関寛斎の生きた時代の明治の税制(メモ)。

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