關 寛斎 (1830〜1912)
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 関 寛斎 入殖の跡を「陸別」に訪ねる。(5-3)
関 寛翁の「創業記事端書」
そして「関牧創業記事」を読み感動する。

明治三十五年八月十日。 関寛斎は初めて斗満開拓の地に立った。
8月5日汽車の終点落合より狩勝峠を越えて清水で泊。
8月6日清水より帯広に着き泊。8月7日帯広より高嶋牧場へ泊。
8月8日高嶋より利別へ泊。8月9日利別から足寄へ泊。
8月10日早朝に足寄を立ち、土人の案内で馬にて、愛別・トメルベシイ・
オヨチ・クンベツ・伏古丹を経て午後三時斗満関牧場へ到着。
その時を回顧した一文を此処に掲載する。


  創業記事端書


 世の中をわたりくらべて今ぞ知る 
       阿波の鳴門は波風ぞ無き


 予は第二の故郷として、徳島に住する事殆ど四十年、為に数十回鳴門を渡りたるも、暴風激浪の為に苦しめらるる事を記憶せざるなり。然るに今や八十一歳にして既往を回顧する時は、数十回の天災人害は、思い出すに於ても粟起するを覚ふる事あり。然れども今日まで無事に生活し居るは、実に冥々裡に或る保護に頼るを感謝するのみ。
明治三十四年には、我等夫婦に結婚後五十年たるを以て、兒輩の勧めにより金婚式の祝いを心ばかりを挙げたり。
然るにかかる幸福を得たるのみならず、身體健康、且つ僅少なる養老費の貯えあり。
此れを保有して空しく楽隠居たる生活し、以て安逸を得て死を待つは、此れ人たるの本分たらざるを悟る事あり。曾て豫想したる事あり。

夫れ我國たるや、現今戰勝後の隆盛を誇るも、然れども生産力の乏しきと國庫の空なるとは、世評の最も唱ふる處たり。依って我等老夫婦は、北海道に於ける最も僻遠なる未開地に向ふて我等の老躯と、僅少なる養老費とを以て、我国の生産力を増加するのことに當らば、國恩の萬々分の一をも報じ、且亡父母の素願あるを貫き、霊位を慰するの慈善的なる學事の基礎を創立せん事を豫め希望する事あるを以て、明治三十五年徳島を退く事とせり。

然るに我等夫婦は此迄医業を取るのみにて、農牧業に経験無きを以って、兒輩及び知己親族より其不可能を以て思い止むべきを懇切に諭されたるも、然れども我等夫婦は確乎と決心する所あり、老躯と僅少なる資金と本より全成功を得べからざるも、責めては資金を希望地に費消し、一身たるや骨肉を以って草木を養ひ、牛馬を肥すを方針とするのみ。

成ると成らざるとは、只天命に在ると信ずるのみ。
故に徳島を発する時は、其困苦と労働と粗喰と不自由と不潔とを以って、最下等の生活に當るの手初めとして、永く住み慣れたる旧宅を退き、隣地に在る穀物倉に莚を敷きたるままにて、鍋一つにて、飯も汁も炊き、碗二つにて最も不便極まる生活し一週間を経て、粗末なるを最も快しとして、旅行中にも此れを主張して、粗食不潔の習慣を養成せり。

故に北海道に着して、假りに札幌區外の山鼻の畑の内に一戸を築き、最も粗暴なる生活を取り、且つ此迄慣れざるの鎌と鍬とを取り、菜大根豆芋等を手作して喰料を補ひ、一銭にても牧傷費に貯へん事を日夜勤むるのみ。然るに嘗て成功して所有するの樽川村の地には、其の年には風損と霜害にて半數の収益を減じたり。
為に悲境を見る事あり、大に失望して、更に粗喰と不自由とを以て勤めて其損害の幾分乎を償はんことを勤めたり。

三十六年には主務なる又一は一年志願兵となり、其不在中大雪に馬匹の半数を斃したり。
三十七年には相與に困苦に當るの老妻は死去せり。
續いて又一は出征し、同秋に至り病馬多く、有數の馬匹即を眺を斃したり。
為に予は一時や病む事あるも、幸に復常せり。又一は三十九年五月帰塲せり。
予は三十七年迄は夏時のみ牧塲に在るのみ。故に其概略を知るのみ。

片山八重蔵夫婦の最初より今日迄の詳細を知るには及ばざるなり。
依て予が見聞する処の概略を記して、後年に至り幾分か創業の實況を知るが為ならんか。
本より此れを世人に知らしむるにはあらざるなり。
我子孫たる者に其創業の困難なるの一端を知らしめんと欲する婆心たるのみ。

               明治四十三年八月淕別停車塲開通の近き日
                    八十一老 白里 關 寛 誌す

關寛斎遺訓集」北海道陸別町關寛翁顕彰会発行より抜粋


関寛斎資料館にある開拓当時の想像図


十勝国中川郡本別村字斗満 関牧場創業記事


八十一老  白里 關 寛 誌す。

明治三十三年八月、又一は札幌農學校在學中シホホロ迄來り、
同地にて實地を檢して且つ出願せんとす。
三十四年一月、又一は釧路を經て淕別に來る。
同年五月、斗満原野三百萬坪餘の貸付許可を得たり。
同年七月、又一農學校卒業す。直に淕別に來る。
同年十月、藤森彌吾吉に左の牛馬を追はせて愛冠に至らしむ。
     牛八頭 馬廿一頭。
明治三十五年三月十七日、片山八重蔵夫婦樽川を發し、
北賓號、耕煙號、瑞章號、札幌號の四頭を追ふて、落合迄汽車にて着。
(中略)

廿五日藤森彌吾吉夫婦が牛馬を飼育するの愛冠の小屋に着し、
同居して雪の溶けるを待つ。

五月二十四日早朝發にて斗満に向ふ。
愛冠には我小屋のみにて、夫れより斗満迄十ニ里間は更に人家無く、
・・・其困難たるや言語筆紙の及ぶべからざるなり。
・・片山夫婦、藤森彌吾吉夫婦、西村仁三郎、谷利三郎、土人一名合せて七名、
同夜九時淕別第五十四號にある測量出張員の假りに用ゐたるの小屋ありて此れに着す。
・・四五日にして小屋の木材を切り取り、樹皮を剥ぎて屋根とし、
且つ四圍を構ひ、或は敷きて座敷とせり。
・・・夫れより開墾して六月十八日迄に一反半を開き、燕麥牧草を蒔付たり。
廿七日、假馬舎に着手して、七月一日出來あがりたり。
七月一日、又一着塲せり。
八月十日、寛は餘作を同伴して初めて來塲す。
寛は餘作が暑中休業にて五郎同行來札するを以って、
五郎を母の許に残し、同五日發にて牧塲に向ふ。
落合迄汽車、夫れより國境の嶮は歩行し、清水にて一泊。
夫れより帶廣に出で、来合はせたる又一に面話し、一泊。
高島農塲に一泊。利別一泊。足寄にて澁田に一泊し、西村氏が傷を診す。
翌日土人一名を案内として傭ひ、乗馬にて早發し、
細川氏にて休み、後三時牧塲に着す。
其實況は左に

細川氏にて茶を饗せられて徑路を通行し、「トメルベシベイ」にて十伏川を渡る。
河畔に鐵道測量の天幕あり。一名の炊夫おりて、我牧塲を能く知る。
最も懇篤に取扱ひくれたるはうれし。茲にて辧當を喰す。茶を饗せられたり。
此迄は人家無く、付近にも更に人家無しと。河畔に土人小屋あり。
此れ鱒を捕るなりと。此れより山間の屈曲せる處を通る。
徑路あるも、然れども予が目には知る事能はざるなり。
数回川を渡り、峻坂を登り、オヨチに至る。
此處は最も密樹の繁茂せるの間をくぐるには、
鞍にかじりつきても尚危く、或は帽を脱せんとする事あり、
或は袖を枝にからまれて既に一身は落ちんとする事數回なり。
且つ大樹の為に晝尚暗く、漸く案内者の跡を慕ふのみ。
頗る困苦するも、先ず無事に亦河を渡り、平坦の原野に出でたるも、また密林あり。
(現今クンベツ)且つ行く處として倒れたる大樹ありて、
其上を飛越へ、或は曲り或は迂回する等は、
迚も言語を以って語り筆紙を以て盡すべからざるあり。
亦一の驚きたるあり、オヨチにては蝮多くして、
倒れ木の上に丸くなりて一處に六七個あるあり。
諸方にて多く見たり。其度毎にゾツとして全身粟起するを覚えたり。
平坦地を通り過ぐるの處に密林あり、湿地あり、小川あり。
其傍らに蕗の多く生へたるあり。蕗葉は直径六七尺、高さ或は丈餘なるあり。
馬上にて其蕗の葉に手の届かざるあり。
試に携ふる處の蝙蝠傘を以って比するに、其大さは倍なり。
此れより川を渉りて原野に出でたり。
(今の伏古丹)。行く事十丁ばかりにして湿地あり、馬脚を没し馬腹に至る。
近傍の地には蘆を生じ、其高さは予が馬上にあるの頭を掩ふあり。
此れを過ぎ、東には川を隔てて密樹あるの山あるを見る。
亦平坦の地に至る。西には樹木の生ずる山あり。
北には樹木無く、平坦なるの高き地に緑草の繁茂するを見たり。
更に能く凝視するに馬匹をつなぐ「ワク」あるを覺えたり。
故に偶然に此れ我牧塲なるかと思ひつつ、更に北に向かふて進むに、
一の廣き湿地あり。
馬脚は膝を没するも馬腹に至らず。
此れを過ぎて次第に登り、平坦地に至る。
少しの高低あるのみなる廣く大なる原野あり。
内に道路あり、幅六七尺にして十字形を為して東西に分れ、南北に分れたるを見たり。
餘り不思議なるを以って、かかる無人境にて此道路は何たるやを土人に問ふ,
土人答て曰く、此れは關牧塲にして、馬の往來するが為にかくはなりたりと。
爰に至りては予は實にうれしくして、一種言ふべからざるの感にうたれて、
知らず識らず震慄して且つ一身は萎靡るが如きを覺えたり。
此時たるや、精神上に言ふべからざるの感を為すは、
これ終身忘る丶事能はざるべきなり。
故に今日に於ても時々思い出す事あり。
あヽ此現状に遇するにおいては大満足たるや如何なる憂苦困難を重ねたるも、
此れにて萬難を打消すべきを感じたり。
あ丶世人は斯くの如きの實境を得る事を知らず、
只空しく一身一家を固守するの人にては、
予が此現状を得る事無き人に対して自ら誇るのみならず其人をあはれに思うなり。
尚牛馬の多く群れたるを遥かに見つ丶河を渉る。(斗満川)。
川畔に牛馬の脚痕の多きを見る。新に柵を以って圍めるを見たり。
ここに至りて尚うれし。進んで少し登りて行くに、樹間に小屋を見る。
喜んで進んで着するに、片山夫婦谷利太郎は大に喜んで迎へらる丶は實にうれし。
然るに奇遇にも土人は鱒貳尾を捕りたるを以て、調理して晩飯を喰して眠りにつけり。
此夜は恰も慈母の懐に抱かれたる心地して、大安堵せり。

(以下略)

「関牧場創業記事」は第五章のはじめで途切れる。

明治三十九年一月一日。
例により斗満川の氷を破り、氷水に入り、灌漑して爽快を覚えて、
老子経を読み、左の語の妙味を感ぜり。

不失其所者久、死而不亡者寿。


そのところをうしなはざるものはひさしく
ししてほろばざるものはいのちながし


關寛斎遺訓集」北海道陸別町關寛翁顕彰会発行より抜粋



ここに老子第33章「弁徳」を掲載する。
老子「道徳経」(Tao

第三三章「弁徳」

知人者智也。自知者明也。

勝人者有力也。自勝者強也。

知足者富也。強行者有志也。

不失其所者久也。死而不亡者寿也。


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