●「關寛斎之像」

「時代」の転換期には、人はよく動き回るものだという。
維新の群像を思い起こしても、竜馬・松陰・・・憑かれたように、あちらこちらに出没する。
「関寛斎之像」も、恩師「浜口梧陵之像」と連帯する如く実にアクチブだ。
明治の人々は「仕事」=「する事」の字義どおり、直向な生涯を送ったのだ。


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 関 寛斎 入殖の跡を「陸別」に訪ねる。(5-4)

寛斎を巡る明治の偉大な人々 
「泰然・梧陵・蘆花」の生涯を辿ってみよう。




佐藤 泰然(1804-1872)

名は信圭(のぶかど)号は紅園、通称泰然。父藤佐(とうすけ)の長男として川崎に生る。洋方医を志して天保元年(1830)足立長雋(ちょうしゅん)高野長英に師事するも満足せず、天保6年(1835)より3年半長崎に留学する。天保9年(1838)江戸へ戻り両国薬研堀に「和田塾」を開く。和田は母方の姓。天保14年(1843)8月、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾の「佐倉順天堂」を開設。姓も父祖の佐藤を名乗った。「順天」とは、中国古書にある「天の道に順」の意。「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極めていた。高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しいが、いずれも麻酔薬を使わない手術であった。安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術とある。泰然は、嘉永4年(1851)12月26日、日本初の「膀胱穿刺」手術に成功した他、乳ガン手術、種痘など蘭学による先進医療を行うと同時に明治医学界を担う人材を育てた。泰然・尚中(養子佐藤舜海)を慕い塾生が全国より多数集まり、順天堂は大阪の緒方洪庵の適々斎塾(適塾)とともに天下に知られた蘭学塾となる。嘉永6年(1853)2月、泰然は功績が認められて、正式に佐倉藩士に取り立てられ、町医から藩医となる。しかしこの年6月、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀へ来航。泰然は藩主正睦の開国論を支持。正睦は安政5年(1858)1月、宮中へ開国の奏上のため京都へ発つも、宮中は攘夷派が多数を占め老中を失脚。泰然も翌年4月病気を理由に家督を尚中に譲って隠居した。正睦の後継大老井伊直弼は、独断で半年後の安政5年(1858)6月、ハリスとの間で条約を調印。政情は混乱を極め、「安政の大獄」が起こり井伊大老は、万延元年(1860)12月、水戸浪士に桜田門外で襲われ、暗殺される。文久2年(1862)3月。泰然は佐倉を離れ、横浜に移住。明治5年(1872)4月14日東京下谷茅町(現台東区池之端)にて肺炎のため没した。享年69歳。

佐藤 尚中(舜海)(1827-1882)
佐藤泰然の弟子で養子となり後に順天堂を継ぐ。外科技術は泰然を凌いだと言われる。
佐藤泰然には五男あったが二人が夭折。残る三人も養子に出した。次男は松本良順、後の陸軍軍医総監である。五男は林 薫(ただす)。榎本武揚の軍に参加し捕らえられるが、陸奥宗光の推挙で外務大臣となる。
尚中は後年明治政府の要請を受け大学東校(のちの東京大学医学部)を主宰したが、教授陣27名中20名までが順天堂関係者であった。退官後は、明治6年下谷連屏町に順天堂医院を開く。ここが今日の順天堂の場所である。




浜口梧陵(1820−1885)

浜口梧陵は文政3年(1820年)6月に紀州有田郡広村(現広川町)に生まれる。
本名成則、通称儀兵衛。号は梧陵。幼くして父を亡くすが、十二歳の時、本家のヤマサ醤油醸造(銚子)に迎えられ、嘉永6年(1853年)家督を継ぎ七代目儀兵衛を名のる。
安政元年(1854)11月の南海道大地震の際に、「稲むら」に火をつけて津波から村民を救う。
その後私財を投じ、4年の歳月をかけて津波から村を守るべく長さ650m余り、高さ約5mの防波堤を築く。これは「梧陵堤」と呼ばれ後の津波から村を守った。慶応2年(1866年)私塾「耐久社」(耐久高校の前身)を設立。また郷土のみならず広く人材の育成をはかり、学問を望む多くの人々の学資を支援。
その中には勝海舟も含まれていた。これらはやがてラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の短編「Living god」(生ける神)により広く世間に知られるようになり、昭和16年小学校教科書に「稲むらの火」として掲載された。
幕末から明治初頭にかけて様々な公職を歴任し、1879年第一回県会議院選挙に当選。初代の県会議長に就任するが、若い頃からの念願であった欧米視察の情止み難く、明治17年(1884年)65歳でアメリカに旅立つ。しかし翌明治18年2月(1885年)視察の途中、ニューヨークで客死した。

幕末から明治と時代の激動期。日本の将来を見据え、鎖国攘夷論者を批判し、博愛精神と「開放主義」のもとに、事業を継承しつつ人材の育成や地域社会の振興を、自らの資金で実践した、偉大な「明治」の日本人である。




徳富蘆花(1868−1927)

名は健次郎。明治元年熊本県に生れる。父一敬兄に評論家蘇峰・叔父に横井小楠がある。
幼少でジェーンズ大尉が基礎を築いた熊本洋学校へ入学。明治九年神風連の乱を体験。
11年同志社へ入学。18年キリスト教受洗、22年上京兄の経営する民友社へ入社。翌23年創刊の「国民新聞」担当となり創作を発表し始める。27年原田愛子と結婚。勝海舟邸に借家した。30年逗子に転居。31年大山巌の長女信子に関する悲話をきっかけとする長編「不如帰」・独自の自然観に貫かれた「自然と人生」を発表、名声を得る。また31年より38年まで東京郊外原宿へ転居。
人物伝「トルストイ」長編「思出の記」等。39年にはパレスチナを順礼し、ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪問し、「順礼紀行」を発表。
旅の翌年は武蔵野へ移住し「美的百姓」としての暮らしが始まる。その間42年小笠原善平の郷里の墓におもむき「寄生木」を発表。43年北海道陸別に関寛斎を訪ね、自然詩人としての田園生活の記録「みみずのたはこと」、44年大逆事件に接しての「謀叛論」を発表。世界一周の記録「日本から日本へ」「黒い眼と茶色の目」「死の蔭に」「新春」自伝「富士」等を発表した。昭和2年9月18日若い日よりの思い出の地、伊香保・千明(ちぎら)仁泉亭で没する。享年60歳。
墓は当時の武蔵野の面影をいまに残し、「芦花公園」の名で親しまれている世田谷の蘆花恒春園にある。



■ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイ
トルストイ「人生論」1967角川書店刊より。



蘆花が「思出の記」を書いた頃(明治35年)の住居は
青山・表参道からちょっと入った神宮前にあった(2003)。


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参考文献
「原野を拓く 関寛開拓の理想とその背景」 陸別町郷土叢書第一巻
「関寛斎」 陸別町関寛斎資料館
「関寛斎遺訓集」 陸別町関寛翁顕彰会
「白里歌集」 陸別町関寛翁顕彰会
陸別町郷土研究会 会報8号・9
徳富健次郎「みみずのたはこと」 岩波文庫
司馬遼太郎「胡蝶の夢」 全4巻・新潮文庫
司馬遼太郎「街道をゆく」第15巻「北海道の諸道」 朝日文庫
川崎巳三郎「関寛斎  蘭方医から開拓の父へ」 新日本新書
城山三郎「人生余熱あり」 光文社
「北海道の歴史」 榎本守恵 君 尹彦 山川出版社
「鈴木銃太郎日記」 田所武編著 柏李庵書房
「吉田巖資料集」 帯広市教育委員会

★・・・・続く。関 寛斎の生きた時代と明治の税制メモ(5-5)

「陸別」からの帰路、路傍にはコスモスの花が北海道の短い夏の終わりを告げていた。
1902年(明治35年)関寛斎の陸別入殖から100回目の夏が過ぎようとしている。
・・・明治の夏はどのような花が咲いていたのだろうか。
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