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ウオッカ或は草原の風



――昭和45年。あの70年安保の年。
中央競馬のクラシック戦線は、
東のアローエクスプレス・西のタニノムーティエの対決ムード一色であったが、
結果は「皐月賞」・「ダービー」共にタニノムーティエの勝利であった。

春シーズンが終わると、タニノムーティエの「菊花賞」三冠達成へファンの興味は絞られた。
しかし、滋賀の新設牧場で夏を過したムーティエは、
「喘鳴症」(ノドナリ)を発症してしまう。
――そして秋。淀の三千メートル。
馬群の中で、喘ぎながら走るタニノムーティエの姿があった。
以来、順調に見えたカントリー牧場に、翳りが見え始める。
オーナー谷水信夫氏の突然の事故死・・・。
中距離界で輝かしい種牡馬実績を残すアローエクスプレスとは対照的に、
種牡馬となったタニノムーティエは、これといった活躍馬を出さぬまま、
忘れ去られた。



――そして昭和が終わろうとする頃、
わたしはJRAの雑誌「優駿」の小さな記事を目にした。

  ・・・アローエクスプレスとクラッシクを戦ったあのタニノムーティエが、
  九州の牧場から北海道十勝の牧場に移されて余生を送る事となった。

記事を目にした都会の競馬ファンが雑誌に投書していた。
  「あのタニノムーティエが九州に売られ、
   また今度は北海道の田舎の牧場に売られて、可哀そう」



その小さな記事は、わたしの心の底で、小さな刺のように引っかかった。
春が来ると、わたしは然別湖へ向かう道筋の牧場を訪ねた。
新緑の光の中で、のんびりと草を食む馬。それがタニノムーティエだった。

「おーーーい、ムーティエーー」
呼び声に応えて、ムーティエは擦り寄ってきた。

誰もいない牧場の片隅で、タニノムーティエの顔を撫でながら、
わたしには、府中の、ダービーの、数万人の視線の先の直線コースが、
中山の、小高い四コーナーから見た、はるか左手前方のゴール板が、
そして淀の、噴水の向うのバックストレッチが・・・、
一瞬のうちに浮かんでは消えた。
「そうか、そうか、そうだったのか・・・。」



――春を迎えた牧場にはタニノムーティエの二匹の仔馬がいた。
そして次の年、タニノムーティエの姿は牧場から消えた。
「ムーティエは元気ですか」
「うん。雑誌に投書が出て、カントリー牧場が、何としても引き取らせてと言うもので・・・」
「そうですか。でも生まれ故郷に戻れたのだから・・・」
そして翌年、牧場で育ったタニノムーティエ最後の仔は、
阪神競馬場の新馬戦を、武豊騎乗で勝利した。
馬名は「ソウゲンノカゼ」。いい名前だ。

「もっと活躍する馬が出るといいですね」
すると牧場主のNさんは独りでログハウスを造りながら、ポツリと言うのだった。
「海から遠い十勝の夏は、サラブレッドには向かないね・・・」

以来牧場から、名馬誕生の話は聞かないが、
Nさんの牧場は観光牧場として賑わっている。



あれから幾度の夏が過ぎたことだろう。

中央競馬は外国産馬の活躍で、中小の牧場はどこも苦しい経営であった事だろう。
「幾度も牧場を手放そうかと思った。」
というカントリー牧場の谷水雄三氏の記事を読んだことがある。
カントリー牧場は平成十四年。ダービー馬「タニノギムレット」を再び送り出した。

そして平成十九年。
ギムレットから生まれた「ウオッカ」が、牝馬として64年ぶりのダービー馬となった。



『このピュアな資質を、タニノなどという水で薄められない。』
とメディアに語る谷水氏の言葉の奥行きを、
わたしも、思い起こさずにはいられなかった。



そんな記憶を◎印に込めて、
わたしはウオッカの単勝に投票しつづけたが、
自分の思い込みに縛られ過ぎて、
馬券的には、ウオッカとの相性はまったく悪かった。

そして一方で40年間牧場を経営するという事はハンパなことではないと実感した。
気が付けば40年間、自分も馬券を買って「競馬」を楽しんでいる訳だ。

イカレた「新聞」は、読まなくなって久しいが、
ウオッカの子供はいまどうしているか・・・。
とか、毎朝スポーツ紙だけは見逃せない。


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